A 願わくは花の下にて春死なんその望月の如月の頃
願わくは花の下にて春死なんその望月の如月の頃
(2011年、私は初めてブログを書いた。パワハラでリストラ寸前の夫を守るために。交渉に負けたら公開するつもりだった)
あの時、こう書いていた。
私の大事な宝もの、3人の子ども達
父さんと母さんは今、大きな困難に直面しています。
だからといって死ぬとか
愚かなことはしません。精いっぱい戦います。
だけど、不慮の何かがおこり、父さんが風に、母さんが花になったとき
何も残されていなければ
きっとあなた達は自分を責めるでしょう。
どうして早く気がつかなかったのか? どうして言ってくれなかったのか? と。
だから真実を記します。
母さんがまだ学生だった頃、
『 願わくは花の下にて春死なん・・・』
西行の和歌に出会った時、
桜がきれい。ダカラ桜の下で死にたいと詠んだのだろうと思っていました。
でもほんとうは違うのかもしれません。
人生の苦境に立たされ
負けそうな自分に
「 桜が咲くまでがんばれ 」とエールを送っていたのではと思うのです。
つらくて つらくて
負けそうで 折れそうな
自分に言い聞かせているのではと思うのです。
今の母さんのように
いつまでも続くと思うから耐えられない
春、桜が咲くまででいい。
それまで頑張ればいい。
とスラスラと書いていたけれど、実際は下の写真のように七輪と練炭を買って車に乗せました。
夫の会社や弁護士事務所へ出かける前には
いつでも死ねるんだから と
トランクを開けて、お守りのように練炭を拝んで
自分にガンバレと言い聞かせないと
負けそうで 心が折れそうで 泣きそうで たまらなかった。
あの日、2011年3月11日14時46分、私は入院していた夫に代わり、弁護士事務所へ向かっていた。
長男が電話してきて叫んだ。
「お母さん、大地震が起こって、日本中がたいへんだよ。知っとうと?
○○(東京にいる妹)の友達が○○はだいじょうぶかって家に電話してきようよ」
正直、運転中で大地震は知らなかった。
末の娘が東京のぼろアパートに住んでいる。でも夫は点滴中。私の身は一つ。
娘のことはあとでなんとかする。後でもできるはずと言い聞かせ車を飛ばした。
通いなれた道なのに、ナビもつけているのに、悲しいほど道に迷う。
やっと法律事務所に着くと、弁護士は午前中に合意した示談書を見せてくれた。
パワハラ 退職勧奨 願い通りに夫の首はつながった。
3.1・1の日に、まるで非国民のように
自己の案件で走り回った。
あれから12年、こうして、昔、書いた「はてな」を読み直し
立ち止まり、振り返り
新しい航路を探している。